昔話「浦島太郎」を、現代のテクノロジーと「失われた時間」をテーマに再構築した短編です。
プロローグ 通知の海
浦島太郎は、三十歳だった。
東京の小さなIT企業で働いていた。
朝七時に起きる。
電車に乗る。
メールを返す。
チャットを返す。
会議に出る。
資料を直す。
またチャットを返す。
家に帰れば、スマートフォンには赤い数字がいくつも並んでいる。
ニュース。
動画。
SNS。
広告。
仕事。
仕事。
仕事。
そして、その中に、ときどき母親からのメッセージが混ざっていた。
「ちゃんと食べてる?」
「今度の日曜日、帰ってくる?」
「お父さんのお墓参り、今年はどうする?」
太郎はいつも、通知だけ見た。
返事は後でいいと思った。
後で。
仕事が落ち着いたら。
今週を乗り切ったら。
次の連休になったら。
そうやって、返事をしないままのメッセージが少しずつ増えていった。
母親は、海の近くの小さな町で一人暮らしをしていた。
太郎が生まれ育った町だった。
東京から電車で二時間半。
遠いと言えば遠い。
帰ろうと思えば帰れる距離でもあった。
だからこそ、太郎は帰らなかった。
いつでも帰れると思っていたからだ。
第一章 KAME
その日、太郎は珍しく休みを取っていた。
理由は特になかった。
会社で有給休暇を消化するよう言われ、仕方なく休んだだけだった。
朝、目を覚ましてもやることがない。
スマートフォンを眺めていると、母親から三日前に届いたメッセージが目に入った。
「海、きれいだよ。」
写真が一枚添えられていた。
故郷の海だった。
青い水面。
白い雲。
誰もいない防波堤。
太郎はしばらくその写真を眺めた。
そして、なぜかそのまま電車に乗った。
母親には連絡しなかった。
驚かせようと思ったわけでもない。
ただ、連絡するのが面倒だった。
駅を降りると、潮の匂いがした。
東京にはない匂いだった。
太郎は実家へ向かう前に、海岸を歩いた。
子どものころ、よく遊んだ場所だった。
そこで、数人の若者が何かを取り囲んでいるのが見えた。
「動いた!」
「もう一回ひっくり返せよ。」
笑い声が聞こえた。
近づいてみると、砂浜に大きな亀のようなものが転がっていた。
だが、本物の亀ではなかった。
甲羅には継ぎ目があり、側面には小さく英字が書かれている。
KAME-07
Autonomous Marine Environmental Explorer
海洋観測用のドローンらしかった。
若者の一人が足で蹴った。
金属音がした。
「やめなよ。」
太郎は思わず言った。
若者たちが振り向いた。
「何すか?」
「壊れるだろ。」
「これ、あんたの?」
「違うけど。」
「じゃあ関係なくね?」
太郎は少し考えた。
自分でも、なぜそこまで気になったのか分からなかった。
ただ、砂まみれでひっくり返った機械が、助けを待っているように見えた。
「管理してるところに連絡するから。」
そう言って、太郎は亀の横にしゃがんだ。
若者たちは興味を失ったように去っていった。
太郎が甲羅に手を触れると、機械の目のようなランプが一度だけ青く光った。
『SYSTEM RESTART』
小さな音声が流れた。
「生きてるのか。」
もちろん、生き物ではない。
それでも太郎は、なぜかそう言った。
KAME-07はゆっくりと脚を動かした。
そして海へ向かって進み始めた。
波打ち際まで行くと、一度だけ振り返った。
少なくとも、太郎にはそう見えた。
青いランプが二回、点滅した。
それからKAMEは海の中へ消えていった。
第二章 招待状
その夜。
太郎は実家の居間で母親の作った煮物を食べていた。
「帰ってくるなら連絡くらいしなさいよ。」
母親は言った。
「ごめん。」
「ごめんって顔じゃないね。」
「急に思いついたから。」
「まあ、いいけど。」
テレビでは、海面上昇と沿岸都市の再開発についてのニュースが流れていた。
母親はテレビを見ながら言った。
「最近、この辺も変わってきたよ。」
「そう?」
「太郎がいない間にね。」
その言葉に、少しだけ棘があった。
太郎は聞こえなかったふりをした。
食後、スマートフォンが震えた。
知らない送信者からのメッセージだった。
『先日は、KAME-07を救助していただき、ありがとうございました。』
太郎は眉をひそめた。
次のメッセージ。
『お礼をさせてください。』
その下に、海上の座標が表示されていた。
さらに、
『明日 10:00』
とだけ書かれていた。
詐欺かと思った。
普通なら無視するところだった。
しかし、添付されていた写真を見て、太郎は手を止めた。
そこには、昼間助けたKAME-07が写っていた。
青い海の中を泳いでいる。
しかも写真の隅には、太郎が砂浜でKAMEを起こしている姿まで写り込んでいた。
誰が撮った?
翌朝。
太郎は母親に言った。
「ちょっと海行ってくる。」
「また?」
「昼には戻る。」
「そう。」
母親は振り返らずに答えた。
「晩ごはん、食べる?」
太郎は靴を履きながら言った。
「たぶん。」
母親は笑った。
「その『たぶん』、昔から嫌い。」
太郎も笑った。
「じゃあ食べる。」
それが、三十年間、母親に直接伝えた最後の言葉になった。
第三章 RYUGU
指定された場所には、小さな無人船が浮かんでいた。
太郎が乗り込むと、自動音声が流れた。
『浦島太郎様。ようこそ。』
「名前まで知られてるのかよ。」
船は自動で沖へ進んだ。
陸が見えなくなったころ、船体中央の床が開いた。
そこには透明なカプセルがあった。
『内部へお入りください。』
太郎は迷った。
普通なら、ここで帰るべきだった。
だが、好奇心が勝った。
カプセルに入る。
蓋が閉じる。
次の瞬間、船ごと海中へ沈み始めた。
太郎は息をのんだ。
透明な壁の向こうを魚の群れが流れていく。
光が遠くなり、青が濃くなり、やがて海は黒に近づいた。
その闇の中に、巨大な光が見えた。
海底に広がる都市。
ガラスのドーム。
無数の建物。
水中を移動する無人艇。
植物園のような緑。
人工の太陽。
入り口には、巨大な文字が浮かんでいた。
RYUGU
カプセルが施設内部へ到着すると、一人の女性が待っていた。
白い服。
長い黒髪。
年齢は太郎と同じくらいに見えた。
「浦島太郎さんですね。」
「はい。」
「私は乙姫。」
太郎は思わず笑った。
「本名ですか?」
「ここでは、そう呼ばれています。」
「じゃあ、あれは竜宮城?」
「それも、ここではそう呼ばれています。」
乙姫も少し笑った。
RYUGUは、国家と企業の共同研究施設だった。
海洋資源、深海生物、気候制御、閉鎖環境での生活。
さまざまな研究が行われているという。
だが、一番驚いたのは生活環境だった。
料理はAIが作る。
部屋はその人の好みに合わせて形を変える。
音楽も映像も、望めば何でも再生される。
仕事をしなくてもいい。
買い物もしなくていい。
通勤もない。
通知もない。
誰かから急かされることもない。
「ここでは、時間を忘れてください。」
乙姫は言った。
太郎は笑った。
「そんなことできます?」
「地上よりは、簡単です。」
その夜、太郎は久しぶりにスマートフォンを見なかった。
第四章 三日間
一日目。
太郎は海底庭園を歩いた。
透明な壁の向こうを、巨大なエイがゆっくり通り過ぎた。
乙姫と食事をした。
「地上では何をしてるんですか?」
「IT関係。」
「楽しいですか?」
太郎は少し考えた。
「忙しいです。」
乙姫は笑った。
「質問と答えが違いますね。」
二日目。
太郎はKAME-07と再会した。
KAMEは研究施設の観測機だった。
青いランプを点滅させながら、太郎の横を泳いだ。
「こいつ、覚えてるんですか?」
「記録しています。」
「同じこと?」
「似ています。でも、違います。」
乙姫は言った。
「記録は消えなければ残ります。でも、記憶は人の中で形が変わる。」
三日目。
太郎は、ここに住んでもいいのではないかと思い始めていた。
地上に戻れば、また仕事が待っている。
未読メール。
締め切り。
満員電車。
人付き合い。
母親からの連絡。
その最後の一つを考えたとき、太郎は胸の奥に小さな違和感を覚えた。
「今、何時ですか?」
乙姫が答えた。
「RYUGU時間で、午後四時十二分です。」
「地上は?」
乙姫は黙った。
「地上は何時ですか?」
「太郎さん。」
その呼び方で、太郎は初めて不安になった。
「何ですか。」
「RYUGUは特殊な時間管理をしています。」
「意味が分からない。」
「施設の中では、睡眠、代謝、知覚時間を制御しています。」
「だから?」
乙姫は静かに言った。
「あなたが感じた三日間と、地上の三日間は、同じではありません。」
太郎の喉が乾いた。
「どれくらい違うんですか?」
乙姫は答えなかった。
それだけで十分だった。
太郎は立ち上がった。
「帰ります。」
「今すぐ?」
「今すぐ。」
乙姫はしばらく太郎を見ていた。
それから、小さな黒い箱を差し出した。
手のひらに乗るほどの大きさだった。
「これは?」
「地上へ戻ってから開けてください。」
「何が入ってるんですか?」
「あなたの時間です。」
太郎は眉をひそめた。
「意味分かんないな。」
「それから。」
乙姫は、少しだけ視線を落とした。
「開けるまでは、中身を消すことも、戻すこともできません。」
「開けたら?」
乙姫は答えた。
「戻れません。」
太郎は箱を受け取った。
そして、RYUGUを後にした。
第五章 三十年
海面へ出た瞬間、太郎は違和感を覚えた。
空が違う。
海岸線が違う。
遠くに見えるはずの山のふもとまで建物が続いている。
無人船が岸へ近づく。
太郎が知っていた漁港はなくなっていた。
代わりに、高い防潮壁と自動搬送設備が並んでいた。
「何だよ、これ。」
岸に上がる。
スマートフォンを見る。
圏外。
というより、通信規格そのものが認識されていなかった。
駅へ向かった。
駅舎は消えていた。
代わりに、無人の小型モビリティが行き交うターミナルができていた。
コンビニに入る。
店員はいない。
商品を持って出ようとすると、天井から音声が流れた。
『認証情報を確認できません。ゲスト決済を選択してください。』
太郎は店を飛び出した。
通りを歩く人に声をかけた。
「すみません。」
相手は耳元の端末を外した。
「はい?」
「今って……何年ですか?」
相手は変なものを見るような顔をした。
「2061年ですけど。」
太郎は笑った。
冗談だと思った。
「いや、そういうのいいんで。」
「え?」
「今、2031年ですよね?」
相手の表情が変わった。
心配そうな目だった。
「大丈夫ですか?」
太郎は走った。
実家へ。
子どものころ何百回も歩いた道だった。
だが、道は広くなり、古い商店街はなくなっていた。
ようやく実家の場所へ着いた。
そこには家がなかった。
十二階建ての集合住宅が建っていた。
太郎は住所を何度も確認した。
間違っていない。
玄関脇に、小さなプレートがあった。
『旧浦島家跡地』
太郎は動けなくなった。
管理人らしい高齢の男性が声をかけた。
「何か?」
太郎は聞いた。
「ここに、浦島って家がありませんでしたか。」
男性は少し考えた。
「ずいぶん昔の話ですね。」
「浦島……春江って人、知りませんか。」
男性は目を細めた。
「春江さん?」
「母です。」
男性の顔から表情が消えた。
「……あなた、誰?」
「息子です。太郎です。」
長い沈黙があった。
男性は何か言おうとして、やめた。
そして小さく言った。
「太郎くんは、三十年前に海で行方不明になったよ。」
太郎の耳に、海の音だけが残った。
第六章 母の時間
男性の名前は山本だった。
母親の近所に住んでいた人だった。
三十年前は四十代だったらしい。
太郎にはほとんど記憶がなかった。
山本は近くの公園のベンチに太郎を連れていった。
「春江さんは、ずっと待ってた。」
太郎は何も言えなかった。
「最初の何年かは毎日のように海へ行ってたよ。」
「……。」
「警察にも、海保にも、何度も連絡してた。」
「母は……。」
言葉が喉につかえた。
「いつ?」
山本は、すぐには答えなかった。
「七年前。」
太郎は計算した。
地上では三十年。
母親は二十三年間、自分を待った。
「病気で?」
「まあ、歳もあったしな。」
太郎は俯いた。
自分の手を見る。
三日前と同じ手だった。
爪も。
皮膚も。
傷も。
自分だけが、一日も歳を取っていない。
「最後まで、俺のこと……。」
山本は頷いた。
「待ってたよ。」
太郎は黒い箱を握った。
乙姫の言葉を思い出す。
あなたの時間です。
「開けるまでは、中身を消すことも、戻すこともできません。」
太郎は箱を開いた。
中に入っていたのは、一台の古いスマートフォンだった。
自分が三十年前に使っていたものと同じ型。
画面が点灯する。
電池は100%。
ロックは解除されていた。
メッセージアプリのアイコンに、赤い数字が表示されていた。
327
太郎は息を止めた。
送信者。
母。
一件目。
『今日は急に帰ってきてくれてありがとう。晩ごはん食べるって言ってたのに、どこまで行ったの?』
二件目。
『暗くなってきたよ。連絡ください。』
三件目。
『警察に連絡しました。これ見たらすぐ電話して。』
四件目。
『お願いだから返事して。』
太郎の指が震えた。
メッセージの日付が進んでいく。
一週間後。
『今日も海を見に行きました。』
一か月後。
『太郎の会社の人が来てくれました。みんな心配しています。』
半年後。
『冬になりました。寒くないところにいるといいけど。』
一年後。
『今日で一年だよ。』
三年後。
『駅前のスーパーがなくなりました。帰ってきたら驚くね。』
五年後。
『スマホを新しくしました。前より文字が大きくて見やすいです。』
七年後。
『お父さんのお墓参りに行きました。太郎の分も手を合わせました。』
十年後。
『もう十年だって。私はまだ待っています。』
十五年後。
『最近、膝が痛いです。歳だね。』
十八年後。
『今日、夢に太郎が出てきました。三十歳のままでした。』
二十年後。
『もし帰ってきても、私はだいぶおばあちゃんになってるから、分からないかもしれないね。』
二十二年後。
『今日は海がきれいでした。あの日と同じ。』
そして。
最後のメッセージ。
日付は、母親が亡くなる三日前だった。
『太郎へ。
これを読む日が来るか分からないけど、念のため書いておきます。
もし本当に帰ってきたら、まずごはんを食べなさい。
あなたは昔から、つらいときほど食べなくなるから。
それから、謝らなくていいです。
お母さんは、あなたが帰ってこなかったことを怒ってはいません。
ただ、もう一度だけ、
「ただいま」
って聞きたかったです。
それだけです。
帰ってきたら、ちゃんと生きてください。
おかえり、太郎。』
画面がにじんだ。
太郎は初めて、自分が泣いていることに気づいた。
三日前。
太郎にとっては、たった三日前だった。
母親は台所に立っていた。
「晩ごはん、食べる?」
「食べる。」
そう答えた。
それなのに。
三十年経っていた。
太郎はスマートフォンを胸に抱えた。
「ただいま。」
誰もいない公園で言った。
もう一度。
「ただいま。」
返事はなかった。
それでも、画面には最後の言葉が残っていた。
おかえり、太郎。
最終章 時間は戻らない
それから一年後。
太郎は海辺の町で暮らしていた。
三十年前の戸籍を回復する手続きは、とても面倒だった。
科学者。
警察。
行政。
報道。
世界は、三十年間歳を取らなかった男を放っておいてはくれなかった。
RYUGUについて調べようとする者も大勢いた。
しかし施設は見つからなかった。
指定された座標には、ただ海があるだけだった。
KAME-07も。
乙姫も。
二度と太郎の前には現れなかった。
ある日。
太郎は海岸で、小さな子どもが泣いているのを見つけた。
転んだらしい。
母親が駆け寄ってくる。
「大丈夫?」
子どもは泣きながら頷いた。
母親は砂を払い、手をつないだ。
「帰ろうか。」
二人は歩いていった。
太郎は、その後ろ姿を見送った。
スマートフォンが震えた。
仕事の連絡だった。
太郎は画面を見た。
そして閉じた。
代わりに、母親とのメッセージ履歴を開いた。
最後のメッセージは、今も削除していなかった。
『帰ってきたら、ちゃんと生きてください。』
太郎は海を見た。
夕日が沈み始めていた。
三十年前と同じように。
たぶん、母親が最後に見た海も、こんな色だったのだろう。
太郎は立ち上がった。
今日は、近所の山本さんと夕食を食べる約束をしている。
約束の時間まで、あと二十分。
昔の太郎なら、
少しくらい遅れてもいいと思ったかもしれない。
今の太郎は、歩き出した。
時間は戻らない。
だからこそ。
待っている人がいるうちに、
帰らなければならない。
海の向こうで、小さな青い光が一度だけ瞬いた。
太郎は足を止めた。
波の間には、何もいない。
しばらく見つめてから、太郎は笑った。
そして、町へ向かって歩き出した。
エピローグ
昔話では、
浦島太郎は玉手箱を開けて、
一瞬で老人になったという。
けれど本当は、
人を老いさせるのは箱ではないのかもしれない。
会えなかった日々。
返さなかった言葉。
後回しにした約束。
「いつか」で済ませた時間。
そういうものが積み重なったとき、
人は初めて、
失った時間の重さを知る。
だから――
大切な人から届いたメッセージには、
できれば今日、
返事をしたほうがいい。

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